2011年7月17日日曜日

考える

最近、あまり更新してなかったブログを更新してみる。

そのきっかけは、GEのCASの人たちと直接会った事。

CASとは、Corporate Audit Staffの事で、GEの内部監査をするエリート集団。

実は、木曜・金曜とCASの関連の人からFMP向けのセッションがあったので、

上司に頼んで、配属先の日野ではなく赤坂本社で出勤し、CASの生の声を聞いてきた。

実際にはCAS現役の人たちとは一言二言交わしただけだったんだけど、

その時に受けた感触から、

直感的に「人に物を伝える力」「思った事を表現する力」を上げておかないと厳しそうだな、と感じた。

ストレートに話題を持ち出し、全く引く事のない姿勢には驚いた。


確か、高校2年生の時にブログを始めたのも、

「考える⇒表現する」というプロセスの練習をするためだったな、と思い出し、

久しぶりに新しいエントリーをしよう、と思うようになりました。

なので、再び少し書きこんでみようと思う。

読者の皆様(いるのかな?)、長い間放置していてすみませんでした。


さて、最近、どうも冴えないな、と感じる事が多い。

「なんでだろう?」と考えると、どうやら「じっくり考える事」をしていないというのが一つの答えになりそうだ。

時間にゆとりがある学生時代は、

「人生どう歩むべきだろう」とか「幸せってなんだろう」とか、

自分の周りに色んな疑問がたくさんあって、

生活の中で代わる代わる登場してた。

そして、暇ができると、ベッドの上でごろーんとしたり、カフェでまったりしながら、

それらの疑問について思いを巡らせ、

友達にその疑問をぶつけて、議論し、考えた。


ただ、大学3年くらいかな?

だんだん慶應の金時計が見えてきた頃から、なのか

「金森ってすげー」みたいな感じの外からの印象に応えようとしてなのか、

その優等生のポジションにいる自分が快適だったのか、

だんだんと考えるのを止めて、

「周りから『こっちがいいよ』と言われる方」に進んでた気がする。


PCPに入った理由も、帰国生で英語がしゃべれて経済やるなら…って感じだった。

よく考えれば延世の勉強会も、Executionは超本気だったけど、なぜやるのかは「流れ」に近かったし、

留学は「優秀な学生のやる事」だし、もしかしたら今の就職先もそうなのかも、と思った。

「人脈を広げるには」という本に、「著者の生の声を聞く」とあったからその本の著者にコンタクトして、

そこから色んな人に会う経験もした。

どれも、後悔してる訳じゃないんだけど、つきつめて考えた答えではない。

「こうするといいよ」というのに従ってたら、気付いたらこうなった。

普通の学生生活の何倍も充実した時間が送れたのは、

大学の仲間、親、先生、サポートしてくれた人たちのおかげ。

そこは、本当にどこまでも感謝している。

今の僕の、「グローバル志向」「変化を求める性格」とかはそこで培った物。


でも、ケルンで一人暮らしを始めたころからかな、

なんか毎日がせわしなくて、もっと大きな人生の問題について考える余裕がなくなってた。

家事やって、会社行って、テレビ見て、風呂入って、飲みに行こうと言われたら飲みに行って、寝て。

最近、とても馬鹿になった気分。

楽しいけど、とても浅い人生な気がする。


さて、じゃあどういう状態がShould beなのか、と言われると難しい。

「考える」という行動がkeyにはなるんだろうけど。

「『考える』とはなんだろうか」というのも、また難しい。

「色んな情報をもとに、自分の頭で『考えて』、自分なりの結論を出す」なんて言う。

でも、テストじゃないんだから、答えなんかない。


そういえば、経済学ってなかなか適当な学問で、

「不況の時、政府はどのような対応を取ればよいでしょう?」という問いに対しても、

「政府支出を増やす方と良い(ケインズ派)」という答えと、

「政府は何もできない(新古典派)」の両方が存在し、

どちらの学派もノーベル賞を取っている「主流」の考え方。

大学で経済学をやってると、

「ああいう考え方もあり、一方でこういう考え方もあります。どちらも筋が通っていて、どちらも一定の現実を説明します」

みたいなケースが多い。

すると、テストで答える時も、

「ああいう考え方もあり、一方でこういう考え方もあります。どちらも筋が通っていて、どちらも一定の現実を説明します」

みたいな説明をすると、「コイツは理解できてるな」という事で、いい点がもらえる。


そうやって生きてきたから、なかなか「コレが自分の答えだ!」という風にならない。

どんな問いに対しても、「Aという考え方もあれば、Bという考え方もあります。」

みたいな、他人事な「答え」で思考停止してしまう。


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さっき、テレビで「100分で名著」を見てたら、

堀尾キャスターが、今の若い人を

「外からの情報を、そのまま自分の意見としてアウトプットして出してしまっている」

と批判していた。

ゲストの斎藤孝氏も、Copy&Pasteを取り上げて、同調してた。

でも、じゃあ彼らが、「全く新しい考えを思いつくことができるのか」というと難しいと思う。

昔、どこかの本で「アイデアとは既存の物の組み合わせである」というような事を読んだ。

経済学の称賛されるべきレベルの論文だって、ほとんどは多くの参考文献の内容のコピーと、

数学者がはるか昔に考え出した数学のルールでできている。

「考える」って何だろう。

意外と難しい。


もしかしたら、「難しい」って気づくことが「考える」という事の本質なのかもしれない。

または、堀尾キャスターが批判してたのは、一つの情報源をそのまま自分の意見として出す事で、

多くのソースを適度に組み合わせながら、一つの「論」にまとめていくのが「考える」なのかもしれない。


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だとすると、「考える」と「思う」の内容はだいぶ変わってくる。

「考える」のアウトプットというのは、客観性を持ち、論理的に正しい内容の物を出す事。

だから、「殺人罪はあるべきだ」と考える人も、「殺人罪は良くない」と考える人もいていい。

むしろ、どちらの論にも一定の論理的整合性・客観性があるのなら、

もう一歩進めて、「殺人罪は存在すべきだ」と「殺人罪を撤廃すべきだ」と両方考える人がいてもいい。

色々な事を学んだ、教養のある人なら、そうするべきなのかもしれない。


一方、「思う」という行為は、習慣的で、論理的に破綻していても良い。

僕が「殺人罪を撤廃するべきだ」と考える理由は、

「人類が平等だとすると、人は人を裁く権利が無いから」とか「更生の可能性があるから」とか、

たくさんの理由が出てきて、論が組み立てられる。

でも僕が「殺人罪を撤廃するべきだ」と思うとしたら、

「だって殺される人はかわいそうなんだもん」とかだし、

それに反対する人は、

「大勢に迷惑かける人は消えてしまえばいい」

とかなのかもしれない。

でも、「思う」ベースでは議論ができない。


だから、公使の「公」のサイドでは、

「考える」ベースの思考力を養うために、

ロジカルシンキングだ、数字に落とし込むだ、

というトレーニングをしているような気がする。


一方で、Should beの状態と離れてても人が動かないのは、

それは人を動かすのは「思う」ベースの意見であるにも関わらず、

「考える」ベースで事が進んでしまっているからなのかもしれない。


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僕は将来、南仏のビーチ沿いに住みたいと思う。

時間に追われず、のんびりした生活で、毎日を楽しみたいと思う。

色んな人と一緒に、やりがいのある仕事をやりたいなと思う。

でも、そんな事は夢だなと考える。

今の仕事は楽しいけど、ずーっと週5、朝から晩まで拘束されるのは嫌だなと思う。

でも、世の中の相場はそんなもんだと考える。

もうちょっとお金があったらなと思うけど、でも世の中見渡したら、結構お金もらってる方だと考える。

CASに行けたら凄い世界が待ってるんだろうなと思うけど、

行くなら、世界中飛び回る前に結婚する相手を見つけたいなと考える。

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今日の投稿は、「考える」と「思う」の違いについて考えた。

でも、こんな事考えても結局何も変わらないのかな、と思う。

それでも、パソコンに向かって、ちょっと考えをまとめる時間を取れて良かったなと思う。

たくさんインプットし、たくさんアウトプットすると、将来は大きな財産になるんだろうなと考える。

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