そのきっかけは、GEのCASの人たちと直接会った事。
CASとは、Corporate Audit Staffの事で、GEの内部監査をするエリート集団。
実は、木曜・金曜とCASの関連の人からFMP向けのセッションがあったので、
上司に頼んで、配属先の日野ではなく赤坂本社で出勤し、CASの生の声を聞いてきた。
実際にはCAS現役の人たちとは一言二言交わしただけだったんだけど、
その時に受けた感触から、
直感的に「人に物を伝える力」「思った事を表現する力」を上げておかないと厳しそうだな、と感じた。
ストレートに話題を持ち出し、全く引く事のない姿勢には驚いた。
確か、高校2年生の時にブログを始めたのも、
「考える⇒表現する」というプロセスの練習をするためだったな、と思い出し、
久しぶりに新しいエントリーをしよう、と思うようになりました。
なので、再び少し書きこんでみようと思う。
読者の皆様(いるのかな?)、長い間放置していてすみませんでした。
さて、最近、どうも冴えないな、と感じる事が多い。
「なんでだろう?」と考えると、どうやら「じっくり考える事」をしていないというのが一つの答えになりそうだ。
時間にゆとりがある学生時代は、
「人生どう歩むべきだろう」とか「幸せってなんだろう」とか、
自分の周りに色んな疑問がたくさんあって、
生活の中で代わる代わる登場してた。
そして、暇ができると、ベッドの上でごろーんとしたり、カフェでまったりしながら、
それらの疑問について思いを巡らせ、
友達にその疑問をぶつけて、議論し、考えた。
ただ、大学3年くらいかな?
だんだん慶應の金時計が見えてきた頃から、なのか
「金森ってすげー」みたいな感じの外からの印象に応えようとしてなのか、
その優等生のポジションにいる自分が快適だったのか、
だんだんと考えるのを止めて、
「周りから『こっちがいいよ』と言われる方」に進んでた気がする。
PCPに入った理由も、帰国生で英語がしゃべれて経済やるなら…って感じだった。
よく考えれば延世の勉強会も、Executionは超本気だったけど、なぜやるのかは「流れ」に近かったし、
留学は「優秀な学生のやる事」だし、もしかしたら今の就職先もそうなのかも、と思った。
「人脈を広げるには」という本に、「著者の生の声を聞く」とあったからその本の著者にコンタクトして、
そこから色んな人に会う経験もした。
どれも、後悔してる訳じゃないんだけど、つきつめて考えた答えではない。
「こうするといいよ」というのに従ってたら、気付いたらこうなった。
普通の学生生活の何倍も充実した時間が送れたのは、
大学の仲間、親、先生、サポートしてくれた人たちのおかげ。
そこは、本当にどこまでも感謝している。
今の僕の、「グローバル志向」「変化を求める性格」とかはそこで培った物。
でも、ケルンで一人暮らしを始めたころからかな、
なんか毎日がせわしなくて、もっと大きな人生の問題について考える余裕がなくなってた。
家事やって、会社行って、テレビ見て、風呂入って、飲みに行こうと言われたら飲みに行って、寝て。
最近、とても馬鹿になった気分。
楽しいけど、とても浅い人生な気がする。
さて、じゃあどういう状態がShould beなのか、と言われると難しい。
「考える」という行動がkeyにはなるんだろうけど。
「『考える』とはなんだろうか」というのも、また難しい。
「色んな情報をもとに、自分の頭で『考えて』、自分なりの結論を出す」なんて言う。
でも、テストじゃないんだから、答えなんかない。
そういえば、経済学ってなかなか適当な学問で、
「不況の時、政府はどのような対応を取ればよいでしょう?」という問いに対しても、
「政府支出を増やす方と良い(ケインズ派)」という答えと、
「政府は何もできない(新古典派)」の両方が存在し、
どちらの学派もノーベル賞を取っている「主流」の考え方。
大学で経済学をやってると、
「ああいう考え方もあり、一方でこういう考え方もあります。どちらも筋が通っていて、どちらも一定の現実を説明します」
みたいなケースが多い。
すると、テストで答える時も、
「ああいう考え方もあり、一方でこういう考え方もあります。どちらも筋が通っていて、どちらも一定の現実を説明します」
みたいな説明をすると、「コイツは理解できてるな」という事で、いい点がもらえる。
そうやって生きてきたから、なかなか「コレが自分の答えだ!」という風にならない。
どんな問いに対しても、「Aという考え方もあれば、Bという考え方もあります。」
みたいな、他人事な「答え」で思考停止してしまう。
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さっき、テレビで「100分で名著」を見てたら、
堀尾キャスターが、今の若い人を
「外からの情報を、そのまま自分の意見としてアウトプットして出してしまっている」
と批判していた。
ゲストの斎藤孝氏も、Copy&Pasteを取り上げて、同調してた。
でも、じゃあ彼らが、「全く新しい考えを思いつくことができるのか」というと難しいと思う。
昔、どこかの本で「アイデアとは既存の物の組み合わせである」というような事を読んだ。
経済学の称賛されるべきレベルの論文だって、ほとんどは多くの参考文献の内容のコピーと、
数学者がはるか昔に考え出した数学のルールでできている。
「考える」って何だろう。
意外と難しい。
もしかしたら、「難しい」って気づくことが「考える」という事の本質なのかもしれない。
または、堀尾キャスターが批判してたのは、一つの情報源をそのまま自分の意見として出す事で、
多くのソースを適度に組み合わせながら、一つの「論」にまとめていくのが「考える」なのかもしれない。
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だとすると、「考える」と「思う」の内容はだいぶ変わってくる。
「考える」のアウトプットというのは、客観性を持ち、論理的に正しい内容の物を出す事。
だから、「殺人罪はあるべきだ」と考える人も、「殺人罪は良くない」と考える人もいていい。
むしろ、どちらの論にも一定の論理的整合性・客観性があるのなら、
もう一歩進めて、「殺人罪は存在すべきだ」と「殺人罪を撤廃すべきだ」と両方考える人がいてもいい。
色々な事を学んだ、教養のある人なら、そうするべきなのかもしれない。
一方、「思う」という行為は、習慣的で、論理的に破綻していても良い。
僕が「殺人罪を撤廃するべきだ」と考える理由は、
「人類が平等だとすると、人は人を裁く権利が無いから」とか「更生の可能性があるから」とか、
たくさんの理由が出てきて、論が組み立てられる。
でも僕が「殺人罪を撤廃するべきだ」と思うとしたら、
「だって殺される人はかわいそうなんだもん」とかだし、
それに反対する人は、
「大勢に迷惑かける人は消えてしまえばいい」
とかなのかもしれない。
でも、「思う」ベースでは議論ができない。
だから、公使の「公」のサイドでは、
「考える」ベースの思考力を養うために、
ロジカルシンキングだ、数字に落とし込むだ、
というトレーニングをしているような気がする。
一方で、Should beの状態と離れてても人が動かないのは、
それは人を動かすのは「思う」ベースの意見であるにも関わらず、
「考える」ベースで事が進んでしまっているからなのかもしれない。
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僕は将来、南仏のビーチ沿いに住みたいと思う。
時間に追われず、のんびりした生活で、毎日を楽しみたいと思う。
色んな人と一緒に、やりがいのある仕事をやりたいなと思う。
でも、そんな事は夢だなと考える。
今の仕事は楽しいけど、ずーっと週5、朝から晩まで拘束されるのは嫌だなと思う。
でも、世の中の相場はそんなもんだと考える。
もうちょっとお金があったらなと思うけど、でも世の中見渡したら、結構お金もらってる方だと考える。
CASに行けたら凄い世界が待ってるんだろうなと思うけど、
行くなら、世界中飛び回る前に結婚する相手を見つけたいなと考える。
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今日の投稿は、「考える」と「思う」の違いについて考えた。
でも、こんな事考えても結局何も変わらないのかな、と思う。
それでも、パソコンに向かって、ちょっと考えをまとめる時間を取れて良かったなと思う。
たくさんインプットし、たくさんアウトプットすると、将来は大きな財産になるんだろうなと考える。
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