朝、到着すると、いきなり中で迷う。
そして、少し遅れて窓口で名前を告げる。
見渡すと、健康診断やら人間ドックを受けてる人がたくさん。
霞ヶ関にこんな医療施設があるなんて知らなかった。
僕は簡単な検診のみなので、着替える必要もなく、
ロッカーにコートとカバンだけ入れて検診をスタート。
「今日は、お名前ではなく、こちらの番号でお呼びしますね。」
と告げられ、301と書かれた番号札を受け取る。
人を個人名ではなく、番号で管理し始めた途端、
急に「ヒト」が「モノ」へと変わる気がする。
僕は今日は、「金森俊揮」という一人の人間というより、
「検査対象301」だった気がする。
アウシュビッツも、囚人○号、っていう管理の仕方をした途端、
人間が人間として扱われなくなったんだよな~
なんて思い出しながら、最初の診断へと向かう。
僕が今までに経験した事にないくらい、システマチックに管理された診療所で、
一つの検査から次の検査へ、流れるよに進んだ。
「次は窓口13番の内科までお願いします」
と言われて、13番へ行くと、
「301番の方どうぞ」
と言われて、5分程度色々見て、
「次は14番の眼科まで」
という感じ。
ヒトをモノとして管理すると、効率がよくなる。
広告代理店では、
おおかたの芸能人がどんな性格で、どんな層から人気があって、
といったのが数値化されたデータベースがあって、
CMの内容と照らし合わせて、誰を使うか決めてるのだとか。
芸能人やAV女優なんかは、完全にヒトが商品だから、
ある意味では、モノ扱いされてるんだよね。
こんな事を考えながら、あっという間に検診は終了。
尿意がなくて、検尿で立ち止まった以外は、
大きな問題もなく終了した。
さて、ここまで書いてみて思ったのが、
「ヒト」と「モノ」って何が違うんだろう?
パッと思い浮かぶのは、主体性があるかないか。
ヒトは意思を表明をする事ができるけど、
モノはそれができない。
その意思を尊重しなければならないから、扱い方を変えるべき、という事か。
でも、モノは意思が無いのかな?
それとも意思はあるんだけど、表明する能力を持ち合わせてないのかな?
石ころだって、あちこち投げられて削られて、という扱い方より、
キレイに装飾されて飾られてた方が嬉しいと思う。
なんだか、難しい。
そう考えると、何かの行為の対象物として何かを「モノ」的に扱う事は、
人道的に間違ってるのかもしれない、と思えてくる。
何をするにしても、その物の気持ちになって考えるべきなのかもしれない。
このDVDは、AVを大量に隠すために使われるより、思い出の写真を詰められた方が幸せだろうし、
僕のカバンは、床に置かれるより、持ってもらってた方が幸せなんだろうな。
本棚の本は、読まれないなら、もっと読んでくれる誰かに譲られた方が幸せなのかもしれない。
なんか、不思議な倫理観に到達した気がする。
とはいえ、僕らは、生きていた方が幸せだった牛の肉を食べ、
地中に埋まってる方がハッピーだっただろう石油を燃やして電力を消費し、
森の一部であるはずの木を切り崩して作られた紙を何枚も消費し、
寝てる方が幸せだった自分の体をたたき起こして生活をする。
人生って、資本主義って、かなりエグいね。
なんか、とりとめのない日記になってしまった。
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