2009年6月17日水曜日

社会契約的な

最近つくづく思うのは、

「人生って生きる価値があるのかな」

っていう事。

生きていく中で、

より良い方向を模索するのは、

簡単でなくても、シンプル。

でも、「生きる」という選択肢と、

「生きない」という選択肢を比較するのは、

実はものすごく難しい。


最近は、恋愛だけでなくて、

自分の周りの人間関係が大きく変化して、

だから、物の見方が大きく変わってきた。

いろいろな人と話す機会があったし。

そんなこんなで、

今の僕の世界観はこんな感じ。


1.人生は生きる価値は無い。

経済学モデルで考えると、効用というのは、

u(x)-tC+ε

(t:労働時間、C:労働の不効用、ε:錯乱項)

という感じで与えられる。

おそらく、諸制約の下でこれを最大化したとしても、

最適値は不なんだろう。

つまり、人生は生きれば生きるほど、

辛い事が積み重なっていく事になってゆく。

人々には、その期の最初に、

この期を「生きる」か「死ぬ」かの選択があるとして、

「死ぬ」という行動に対する苦しみがDだとして、

動学的なモデルを組んだら、おそらく、

∑{δ^t・u(x*)-t*C}>u(x*_now)-t*_nowC-D

で、だから人々はとりあえずは生きているんだと思う。

「生きるのは地獄」

「死ぬのは、さらなる地獄」

みたいなね。

という訳で、世の中の人たちはεの動きに一喜一憂しながらも、

とりあえずはキツくても生きているんだと思う。


2.社会契約的な人間関係

おそらく、日本では、

「人々が完全に孤立してたら、

生活が辛いだろう?

だから、人々はそれぞれに安心を与えあって、

生きているんだよ。」

というような社会契約的な人間関係

作られていたんだと思う。

でも、最近はこれが崩れてきてるよね。

どこまでが「社会」なのかが曖昧で、

「あいつは俺と関係ないやろ」

みたいな関係が多い。

でも、いずれは社会契約的な物が、

必要になると思うんだよね。

ルソーが唱えたレベルに戻って考えても、

無差別殺人が横行する世の中が、

長期的に存続可能かとは思えないからね。

資本主義的な社会システム、特に生産システムでは、

おそらく、「○○だと辛いだろ?だから・・・」

の部分ができないように、

各主体が分離されている世界。

とすると、これからは、

社会が統合されていくような、

協力が重要視されるような、

そういう社会システムが求められるんじゃないかな、

と考えてしまうのです。


今日の電車の中で、

ゼミのMikitani&Posenの本を読みながら、

ぱっと考えたのはこんな感じ。

結構悲観的な世界観なのでした。笑

1 件のコメント:

金森 俊揮 さんのコメント...

効用最大化式の中で、割引率の部分が抜けていましたね。
ゼミ中に、教授に指摘されて気づいたため、数分前に修正しました。