最近つくづく思うのは、
「人生って生きる価値があるのかな」
っていう事。
生きていく中で、
より良い方向を模索するのは、
簡単でなくても、シンプル。
でも、「生きる」という選択肢と、
「生きない」という選択肢を比較するのは、
実はものすごく難しい。
最近は、恋愛だけでなくて、
自分の周りの人間関係が大きく変化して、
だから、物の見方が大きく変わってきた。
いろいろな人と話す機会があったし。
そんなこんなで、
今の僕の世界観はこんな感じ。
1.人生は生きる価値は無い。
経済学モデルで考えると、効用というのは、
u(x)-tC+ε
(t:労働時間、C:労働の不効用、ε:錯乱項)
という感じで与えられる。
おそらく、諸制約の下でこれを最大化したとしても、
最適値は不なんだろう。
つまり、人生は生きれば生きるほど、
辛い事が積み重なっていく事になってゆく。
人々には、その期の最初に、
この期を「生きる」か「死ぬ」かの選択があるとして、
「死ぬ」という行動に対する苦しみがDだとして、
動学的なモデルを組んだら、おそらく、
∑{δ^t・u(x*)-t*C}>u(x*_now)-t*_nowC-D
で、だから人々はとりあえずは生きているんだと思う。
「生きるのは地獄」
「死ぬのは、さらなる地獄」
みたいなね。
という訳で、世の中の人たちはεの動きに一喜一憂しながらも、
とりあえずはキツくても生きているんだと思う。
2.社会契約的な人間関係
おそらく、日本では、
「人々が完全に孤立してたら、
生活が辛いだろう?
だから、人々はそれぞれに安心を与えあって、
生きているんだよ。」
というような社会契約的な人間関係が
作られていたんだと思う。
でも、最近はこれが崩れてきてるよね。
どこまでが「社会」なのかが曖昧で、
「あいつは俺と関係ないやろ」
みたいな関係が多い。
でも、いずれは社会契約的な物が、
必要になると思うんだよね。
ルソーが唱えたレベルに戻って考えても、
無差別殺人が横行する世の中が、
長期的に存続可能かとは思えないからね。
資本主義的な社会システム、特に生産システムでは、
おそらく、「○○だと辛いだろ?だから・・・」
の部分ができないように、
各主体が分離されている世界。
とすると、これからは、
社会が統合されていくような、
協力が重要視されるような、
そういう社会システムが求められるんじゃないかな、
と考えてしまうのです。
今日の電車の中で、
ゼミのMikitani&Posenの本を読みながら、
ぱっと考えたのはこんな感じ。
結構悲観的な世界観なのでした。笑
1 件のコメント:
効用最大化式の中で、割引率の部分が抜けていましたね。
ゼミ中に、教授に指摘されて気づいたため、数分前に修正しました。
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